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月に一度の文字並べ

夜空を見て何を思う

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春になり、春一番とは何回あるのだろうと思うほどに、強い風が吹き荒ぶこの数日で、気付けば、日が長く感じるようになっていた。

16:00頃には、あっという間に暗くなっていた冬が明け、17:00を過ぎても、ほのかに赤みを帯びた空を眺める日が多くなった。

 

夜にぼんやりと浮かぶ月を見ながら、1日を振り返ることが多い。

仕事でのミスや方針の違い、接客態度、エトセトラ。

もう少し上手く立ち回れたのではないか、もう少し良い言い回しがあったのではないか。

その延長線には、自己嫌悪が待っていると分かっていながら、ついつい物思いに耽ってしまう。

 

鉄のように重く浮腫みだらけの足をなんとか動かしながら、帰路に着く。

他人から言われた一言、昔ぶつけられた怒り、他人に放った嫌悪感。

夜はどことなく苦手な気がする。

負の感情と負の思考に押し潰されそうになる。

 

暗く広い夜空は、私に降りかかる。

だから、下を向いて歩く。

降りかかる恐怖を見ぬように。

明日の朝に希望を抱けるように。

 

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ameエッセイ

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「エッセイを読んでみたい」と言われ、はてさてどうしたものかと、困り果てた。

エッセイの書き方を調べれば調べるほどに、沼に足を踏み入れたように、ずぶずぶと引き込まれ、気付けば、期限の3月31日を過ぎていた。

 

読者がいるのかどうかもわからぬ、この媒体に何を書き連ねようかと考えた結果、他者に理解されぬ長年の葛藤について書いてみようと思い立った。

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LGBT」や「セクシャリティ」という言葉が頻繁に使われるようになった、ここ数年。

秘めていたわけではないが、理解されぬであろう私の性的嗜好も簡単に口にしやすくなったと思う。

 

私は、数年前からアセクシャルを自認している。

アセクシャル・Aセクシャル・無性愛者。

無性愛というと、ノンセクシャルも分類されるが、私の場合は恋愛感情というもの自体が分からないため、アセクシャルと説明するようにしている。

 

「誰かを好きになることがない」

「抱かれたいと思わない」

「スキンシップをされても何も思わない」

 

この3点を他者に伝えたところで、理解し難いというリアクションを受け取るばかり。そのことについて、悲観的に思ったことはない。むしろ、興味関心を持って、知ろうとする人もいる。

 

私がアセクシャルであることに関して、私自身、不安に思ったり、悲しい気持ちになったことは一度もない、と言いたいところだが、実は数回ある。

(それに関してはプライベートな内容なので言及は控えるけれど)

 

それでも、私は今の性的嗜好に関して、特に問題があると思ったことはない。

1人で可哀想、と思われるかもしれないが、私には友人や親がいる。誰か1人にだけ、特別愛されるなんてことは、特に興味がないのだ。

 

恋愛が柵だらけだとは思わないけれど、一人は自由で気ままだ。

私はこの自由をとりわけ愛している。

他者を愛することができない代わりに、この自由を。

変わり者というレッテルを貼られようが、寂しい可哀想な人と哀れみの目を向けられようが。

私は、私を面白がってくれる人々を愛するのに忙しいだけ。

 

様々な思考と嗜好がある中で、自ら選択をしたわけではなく、長く感じていた違和感に名前があると知り、救われた気持ちになった。

それは性的嗜好に限らず、きっと誰しもが経験したことだと思う。

 

そう思えば、他者の無自覚な悪意をぶつけれようとも、何も思わない。

きっと、私もどこかで誰かを傷つけてしまっているかもしれないのだから。

恋愛感情が無くとも、性的欲求がなくとも、楽しく生きていける世の中になった。

そのことが、今の私にとって、とても喜ばしく、重要なことだ。

 

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食事

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怠惰な自分を更に甘やかした生活を送っていたら、脂肪という名のおまけが付くようになった。

食事というのは厄介なもので、自分の好みに合わせて、食い散らかせば、健康体という名の武器を無くし、盾にもならない脂肪が身につく。

 

食事は、作業。

そう思うようになったのは、いつからだろう。

食欲が退化し、偏食に拍車がかかったのは、一人暮らしを始めてからではなかったはず。

実家にいる頃から、食事が酷く面倒に感じるようになってしまった。

飲食店で働いているにも関わらず。

酷く面倒な作業も、胃に入れなければ、胃袋から荒々しい音が鳴り響くので、仕方なくこなす、という具合に、毎日の食事を片付けていた。

 

そんな頃もあった、と思うようになった。

ここ数年で、私の精神面は少しずつ、それでも大きく変わってしまった。

それが嘆かわしいことなのか、はたまた、喜ぶべきものなのかは分からないけれど。

数年前まで、日々を絶望し、飽きていて、何か刺激を求めるものの、行動には移せなかった。

今では、多少の悩みはあるけれど、毎日の仕事もこなし、プライベートの時間ものんびり過ごせるようになった。

 

心の平穏は、きっと食事に現れるのだろう。

今では、見た目が美しいケーキや良い香りのする料理に目が惹かれるようになった。

不思議、とても。

相変わらず、胃袋の許容値は低いけれど。

だからこそ、1回の食事を大切にするようになった。

 

ポピーシードが散りばめられたレモンケーキ。

艶やかなソースが絡まるパスタ。

色とりどりのフルーツが飾られたタルト。

香ばしいネギが香るチャーハン。

 

少食なりに、偏食なりに、健康に気を遣った目にも美味しい料理を探す毎日。

増えたのは、下腹に溜まる脂肪だけではないはず。きっと。

心の平穏と、脂肪のバランス。

 

「どうせ食べるなら、美味しいものを。」

そう思えるようになった私を数年前の私は、きっと軽蔑の眼差しで眺めるだろう。

そこに、僅かながらの羨望も含まれていると知らずに。

 

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死ぬ前日に観る最後の映画

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「最後に見たい映画は、何ですか?」

そう問われて、以前の私なら間違いなく、『レオン』と答えただろう。

救いようのない家族に育てられた少女が、アパートの隣に住む寡黙な殺し屋に恋する話。

家族愛なのか、恋愛なのか、区別もつかない少女が涙しながら別れを受け入れる哀しい物語が、どうしようもなく、私は好きだった。

言葉にできぬ不可解な感情を持って、相手を慈しみ、寄り添う2人を美しいと思った。

 

初めて『レオン』を見てから、十数年が経った今、私が最期に観る映画は何なのだろう。

感銘を受けた作品や情景描写が美しい作品、高校生の時に比べたら、本数は減ったものの、それなりに新しい出会いもあった。

けれど、「映画」というものに対する感覚や向き合い方が変わった気がする。

学生時代は、閉鎖的で統一的な学校というものに違和感を覚え、日常生活において、いつもどこなく居心地が悪い、と思っていた。

そして、暇さえあれば、「映画」の世界に齧り付いていた。

犯罪現場を目撃してしまった歌手が教会に逃げ込んだり、メガネをかけた登場人物たちが綺麗な砂浜で奇妙な体操をしたり、京都大学に必死の思いで入ったら、訳の分からないサークルに加入することになり、そこからまた奇妙な戦いに巻き込まれたり。

たくさんの世界があった。

主人公たちは、いつも困っていた。居心地が悪そうだった。そこから、変化していく環境のおかげで、晴れやかな笑顔になったり、死ぬことによって救われたり、私にとっては魅力的な世界ばかりだった。

 

今の私にとって、「映画」とは何だろうか。

どのような気持ちで向き合っているのだろうか。

娯楽、暇つぶし、食事のお供etc.

いろいろと思い浮かぶけれど、それでも思い浮かぶのは、「教訓」。

他者が作り出した不思議な世界に飛び込むこともできず、逃げ込むこともできないことを私は感覚だけでなく、きちんと理解してしまう年齢になってしまった。

でも、好きなものを嫌いにはなれない。

あの輝かしく、妖しく、儚い世界たちは、今でも私の胸に鮮明に刻まれているし、あの時受けた感銘も忘れられやしない。

 

ただ、いつの日だったか、逃避するのをやめようと思った。

普通の男の子がある日突然、魔法学校に入学したように、私にフクロウ便は来ないし、廃墟で偽札を作るたくさんの仲間たちもいないし、厳しくも権威のあるファッション誌編集長の下で働くこともない。

それでも、あの世界から学び取ることを選ぼうと思った。

きっと、この先に待ち受けるちょっとした壁を攀じ登れるように。

学生時代に逃げたものから、もう逃げなくて済むように。

そう思えるようになったのも、過去に見てきた多くの世界のおかげかもしれない。

 

このテーマに対する、私の答えは、

「何も見ない。」

最期だろうと、創られた世界に逃げ込むことなく、自分の人生を振り返りたい。

おそらく、それは今まで見てきたどの世界よりも、映画のように観える気がしているから。

魔法もロマンチックも何もなく、ただ普通の少女が人生を進んでいくだけの物語。

自分で振り返れば、きっとツッコミどころ満載だろう。

 

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距離

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通い慣れた道を越えて、お気に入りの街へ行く時、気持ちが少しだけ高揚する。

地図で距離を測ると、15km前後。

電車で向かえば、乗り換えを1回して、約50分。

店前に並ぶ古本の埃臭さに、懐かしさが込み上げる。

 

大学入学と同時に、初めて訪れたこの街は、私にとって誘惑の宝庫だった。

どこを見ても古本屋が軒を連ね、路地を覗けば、白熱灯に照らされた喫茶店がひっそりと佇んでいた。

茶店に入れば、ヤニが染み付いた独特のクリーム色の壁、コーヒー豆の香り、常連であろうサラリーマンが新聞をめくる音。

小さめに流れている、ジャズだかクラシックのレコード。

女子大生が一人でタバコを吸っていても、誰も気に留めない空気。

 

大学構内の喧騒から走り出して、5分弱。

誰も私のことを知らない空間。

真っ白でもったりとした白いクリームの乗った、ウインナーコーヒー。

古本屋で買った、黄ばんだ小説のページをめくりながら、タバコを吸う。

人が通る度に、肩をすくめなければならない、狭い空間でも、なぜか心地が良い。

満員電車と同じくらいの距離感なのに。

 

不思議な距離。

 

今は遠く離れてしまったように感じるあの街。

街の場所は変わることなく、その場にあるのに。

 

今度の休みは、久しぶりに出掛けよう。

あの街へ。

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無題

 


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この写真を撮った日、父が住んでいた家の片付けが終わった。

遺された3人(+父の友人1人)で、生活していた痕跡を失くす作業。

懐かしい写真や物たちを涙ひとつ溢すことなく、燃えるゴミに変えていく。

父が生きていた場所。

実家を出て3年が経ってから、父が暮らしいた場所に初めて赴いたのは、今年の6月。

奇しくも、自分の誕生月。

悲しみも、喪失感も、虚しさも、全てそこにあった。

 

消化しきれぬ思いは、父から譲り受けたカメラに込めて、せめてもの気持ちで、皆既月食翌日の満月に近しい月を撮った。

 

あまりに美しく映った月は、きっと涙の形。

愛する父は、もういない。

 

両手にずしりと重みを感じる、最期の仕事道具だった望遠レンズをしっかりと握り、映し出す景色。

 

これから、私は何を撮るのだろう。

このレンズは、何を映してくれるのだろう。

 

期待に胸が膨らむ、なんてことはないけれど、これからは私のモノ。

無題

「いい写真」とは何だろう。

最近、良く考える。

自分の思う「いい写真」、「素敵な写真」。

 

「写真が上手い」という言葉を解剖している。

 

構図なのか、色味なのか、タイトルなのか。

はたまた、レタッチなのか。

 

難しくて、正解のない疑問。

 

万人に受ける写真の撮り方と、自分勝手な撮り方と。

双方のバランスが崩れている気がする。

 

かといって、本当に万人に受けているのだろうか?

 

自分のレタッチ、構図、色彩感覚。

全てに自信を持って発信できればいいのに。

その為には、もっと沢山撮らねば。

 

撮ろう、恐れずに。

赴こう、恐れずに。

 

「自信は経験から」を信じて。

進むのみだろう、きっと。