「エッセイを読んでみたい」と言われ、はてさてどうしたものかと、困り果てた。
エッセイの書き方を調べれば調べるほどに、沼に足を踏み入れたように、ずぶずぶと引き込まれ、気付けば、期限の3月31日を過ぎていた。
読者がいるのかどうかもわからぬ、この媒体に何を書き連ねようかと考えた結果、他者に理解されぬ長年の葛藤について書いてみようと思い立った。
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「LGBT」や「セクシャリティ」という言葉が頻繁に使われるようになった、ここ数年。
秘めていたわけではないが、理解されぬであろう私の性的嗜好も簡単に口にしやすくなったと思う。
私は、数年前からアセクシャルを自認している。
アセクシャル・Aセクシャル・無性愛者。
無性愛というと、ノンセクシャルも分類されるが、私の場合は恋愛感情というもの自体が分からないため、アセクシャルと説明するようにしている。
「誰かを好きになることがない」
「抱かれたいと思わない」
「スキンシップをされても何も思わない」
この3点を他者に伝えたところで、理解し難いというリアクションを受け取るばかり。そのことについて、悲観的に思ったことはない。むしろ、興味関心を持って、知ろうとする人もいる。
私がアセクシャルであることに関して、私自身、不安に思ったり、悲しい気持ちになったことは一度もない、と言いたいところだが、実は数回ある。
(それに関してはプライベートな内容なので言及は控えるけれど)
それでも、私は今の性的嗜好に関して、特に問題があると思ったことはない。
1人で可哀想、と思われるかもしれないが、私には友人や親がいる。誰か1人にだけ、特別愛されるなんてことは、特に興味がないのだ。
恋愛が柵だらけだとは思わないけれど、一人は自由で気ままだ。
私はこの自由をとりわけ愛している。
他者を愛することができない代わりに、この自由を。
変わり者というレッテルを貼られようが、寂しい可哀想な人と哀れみの目を向けられようが。
私は、私を面白がってくれる人々を愛するのに忙しいだけ。
様々な思考と嗜好がある中で、自ら選択をしたわけではなく、長く感じていた違和感に名前があると知り、救われた気持ちになった。
それは性的嗜好に限らず、きっと誰しもが経験したことだと思う。
そう思えば、他者の無自覚な悪意をぶつけれようとも、何も思わない。
きっと、私もどこかで誰かを傷つけてしまっているかもしれないのだから。
恋愛感情が無くとも、性的欲求がなくとも、楽しく生きていける世の中になった。
そのことが、今の私にとって、とても喜ばしく、重要なことだ。