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月に一度の文字並べ

インプットとアウトプット

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明けましておめでとうございます。

つい先日、知人に「締切、明日じゃない?」と言われ、なんのことかと不思議に思っていたら、ここに文字を連ねることだった。

すっかり忘れていた訳ではない、というと嘘になってしまうが、つい後回しにしているうちに、1月も終わりの日となっていた。

明日やろうは馬鹿野郎、とは出来た言葉だ。

気をつけたい所存ではある。

 

さて、今月はインプットとアウトプットについて書こうと思う。

何故ならば、最近の私は仕事が作業化し、ルーティン化に拍車がかかり、更に指導や教育といった業務が重なっていて、しばらくなかったインプット欲が暴れ始めているからだ。

 

インプットとは、入力

アウトプットとは、出力、発信

 

昔から、私は出力することが多くなると、頭の中が空になる傾向にある。そもそものデータ量が少ないことが要因な気もしなくはないが、容量の問題でもある気がする。

元々、知識欲が多いのは自覚しているので、環境などによって、インプットできる場所がなくなると、途端にやる気を喪失する傾向がある。

このインプットがなかなか難しく、今、自分の求めている知識や経験、技術が明確に言語化できないが故に、あれやこれやと手を出しては、あまりフィットせずに、頭の中がハテナマークだらけになることが多々ある。

 

私は今、何を求めているのだろうか。

仕事に直結するスキルなのか。

将来生きていく上で必要な知識なのか。

自身の成長に繋がる経験値なのか。

 

毎日そんなことを考えながら、仕事をこなす日々に忙殺され、すり減りがちになってきた2024年の始まり。

身体の疲れというよりも、脳の疲れが蓄積している。趣味にも、なかなか時間が割けない毎日に、少しだけ疲弊してきている。

 

ただし、昔と違うところは、自分の状況をざっくりとでも理解し、危機感をきちんと抱けるようになったことだ。焦燥感が少しでもあるうちは、なんとか対策ができるはず。

 

焦りを原動力にせず、のんびりとインプット・アウトプットの切り替えを行える大人になりたいものだ。

 

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have a nice day,The Birthday

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チバユウスケさんの訃報を受け、

どうにかこうにか気持ちを消化するためにも、

私の中の思いを書き散らかそうと思う。

 

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思えば、初めてチバユウスケの歌声を聴いたのは、あの有名なミュージックステーションだった。

細身のスーツに身を包んだ、黒く訝しげな4人組が、階段を降りてくるシーン。

私は当時t.A.t.uが好きで、彼女らが日本のテレビに出演すると聞き、胸を躍らせていた。

大人になり、彼女らの行動がマネジメントによるものだということを知ったのだけれど、その当時の私には「なぜ出てくれないの?」「日本が嫌いなのだろうか」と、ただひたすらに悲しい気持ちになった。

 

そんな悲しみを掻き消すような荒いがなり声と、耳を突き抜けるようなギターの音、そして、臓物が鼓動するようなバスドラムを初めて聴いた。

ロックというジャンルも、バンドという存在も、何もかもを知らなかった小学生の私に突然の出会い。

「かっこいい」とは思えず、ただ、ただ、不思議な物を目撃した、という印象だった。

 

そんな衝撃から奇跡の再会を遂げるのは、十数年経ち、大学生になった頃。

様々な音楽遍歴を辿り、ロックバンド好きになった私は、念願叶って軽音サークルへと入部した。

上級生から、毎日のように、品定めの如く音楽遍歴を聞かれていたあの頃。

「ミッシェルガンエレファント、通ってないの?」

当時は、海外のバンドかと何度も聞き返したりしていたが、やがて、ミュージックステーションで、2曲演奏を成し遂げた伝説のバンドだと知った。

そこから、ただひたすらにミッシェルガンエレファントの曲を聴き漁る日々。

あの荒いがなり声が、痛切な思いの丈のように聴こえたし、突き刺さるギター音は、ほんの少しの切なさを含んでいるように思えた。

そして、それらをメロディに乗せて支えるベースに酔いしれ、安定したパワフルなドラムが腹の底で波打つのが心地よいと思えた。

 

その後、親しかった先輩に勧められ、The Birthdayへと流れ着いた。

「なぜか今日は」

初めて聴いた日の心地よさと衝撃は、今でも忘れることができない。

チバユウスケの掠れた声は、歳を取るごとに、深みが増し、刹那的な言葉に聞こえる。

その後も、たくさんの名曲を生み出し、たくさんの人々を魅了したであろう、偉大な人。

 

あのがなり声は、なぜか今日も、何者にもなれない自分に寄り添っているように聴こえる。

荒々しく、鋭利な声が、今でも、頭に響いている。

 

なぜか今日は。

なんか今日は。

きっと今日は。

 

あの声に、あの歌に、あの詞に、

救われたのはきっと私だけではない。

安らかに眠っているであろう彼の歌が、これからも私を救ってくれるに違いない。

ほんの少しの淋しさを含んで。

 

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馴染みの医者と血液検査

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気付けば、11月ももうすぐ終わり。

1年があっという間に過ぎ去る今日この頃。

もう年末の予定と睨めっこしながら、

これからやってくる繁忙期に頭を抱えていたら、

知恵熱なのか、38℃の高熱を叩き出す羽目になりました。

 

カルテを見返してもらったところ、

どうやら生後半年からお世話になっているということが判明した主治医。

久しぶりの高熱にうなされながら、診察室へ向かうと、

「今日はどうしたの?」といつもの笑顔を通り越してニヤニヤといたずらっ子のような顔で尋ねられた。

「確か70歳手前だよな、この人」と思いつつも、相変わらずお元気そうな顔に安堵した。

 

そう、私の主治医は、昔からいたずらっ子。

小児科を掲げているにも関わらず、予防接種の時には、

いつも「さあ、痛いぞ〜」と脅しながら、ニヤニヤと注射器を近付けるのだ。

今思い返すと、随分と嫌な大人だ。

それにも関わらず、今でも通ってしまうのは、あのニヤニヤ顔が可愛らしいからだろう。

 

仕事柄、高熱が出たら即検査を受けなくてはいけないので、

どうにか苦手な血液検査を乗り越え、結果を聞くと、「細菌感染」。

要するに、免疫が低下した身体に細菌が入り、悪さをしたものの、身体が必死の抵抗をして高熱が出たらしい。

ただの細菌にすら勝てないほど、疲れ果てていたらしい。トホホ。

そんな検査結果を主治医がケタケタと笑いながら伝えてくるものだから、

なんとも可愛らしくて、つい診察室で笑ってしまった。

 

二十数年の付き合いになる主治医だが、私は注射の類が大の苦手だ。

(苦手になったきっかけの半分はこの人のせいだと思っているが)

針が刺さる感覚、痛みがなんとも嫌で、毎回、検査と言われるたびに半泣きになっている。

今回も安定の血液検査と言われ、「ただでさえ高熱でしんどいのに…」と拗ねたところ、

「もういい大人でしょう」と至極真っ当なお叱りを受けた。

針を刺す瞬間、ぎゅっと目を瞑り、目線を逸らしていたら、

「そんなにタトゥー入れてて、まだ慣れないの〜?」と相変わらず笑われた。

今回は後ろの看護師さんにも。

ああ、恥ずかしい。

だが、幾つになっても嫌いなものは嫌い。

 

こんなやり取りができるのも、この先生だけなんだよな、とふと寝る前に思った。

あの笑顔と優しい手のお陰で、私の身体は健康を取り戻すんだ。

博識ないたずらっ子。

長生きして欲しい、と思うのは、きっと私だけではないはず。

今日もまた幼き子に嫌われながら、予防接種をしているだろう。

あのいたずらっ子がいつまでもあの笑顔で診察室にいて欲しいと思った、つい最近の出来事。

 

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わからないこと

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漠然としたテーマを投げかけられて、

はて、と困り果てたものの、

大きな括りのテーマは、

自由度が高いということに気付き、

書きやすいのかもしれない、

と思うようになった。

 

わからないこと

多くの人がわからないことを幾つも抱えて、

歩いているのだろうとは思うけれど、

私の中でわからないことの代表は、

「恋愛感情」及び「恋愛における悩み」。

 

恋愛感情がないからわからないのか、

それとも、共感できないからわからないのか。

 

つい先日も、恋人と別れたばかりの子から、

愚痴のような相談のような話をされた。

「好きだからこそ、好きという言葉が欲しい」

「好きだからこそ、同じものを共有したい」

この飾り言葉のような「好きだからこそ」が、

私にとってひどく難しく、わからない。

 

好きという感情も共感しづらいのだが、

好きだからと言って、

他人という枠から抜けることはない。

あくまで、他人。他の人。自分以外の人。

理解することもできなければ、

制限できるわけもない。

 

言葉にせずとも行動で示しているのでは、

と彼に投げかけたところ、

「言葉にすることに安心がある!」

と強く言い返されてしまった。

 

言葉とは空虚なもので、

発せられれば真実かと言えば、そうでもない。

嘘も方便という諺もあるくらいなのだから。

言葉にしたから安心するというのであれば、

その安心感は空虚で簡素で、

安っぽいようにも思えてしまう。

そう思うのは、不思議なことなのだろうか。

 

十数年、付かず離れずの、

不思議な関係の友人がいる。

友人と呼べるかどうかも定かではないのだが。

時を経るごとに、取り繕うことをやめ、

自然な状態で居ることができる。

彼は私のことが「好き」らしいが、

私は居心地の良い人、としか返さない。

それが彼にとっての安心感らしい。

それで良いのではないのだろうか。

それでは駄目なのだろうか。

 

あくまで他人。他の人。自分以外の人。

何かを強要する関係になれば、

それは恋愛ではなく、主従なのでは。

わからない。

 

私には居心地の良い友人が数人ばかし居る。

それが恋愛関係でなくとも、

満たされる気持ちはある。

大勢の人とかけ離れた感覚なのだろうが、

私に恋愛がわからないのと同様、

多くの人が私のことをわからないはず。

 

わからないこと。

人を好きになる気持ち。

人を恋しいと思う気持ち。

思いが伝わらず、もどかしいと思う気持ち。

私がいつもわからず苦しむのは、

他人の感情や思考に関することなのだと思う。

 

わからないからこそ、他人との対話は面白い。

わからないことが、

愉しく思えるようになったのは、

きっと私と喫茶店に行ってくれる、

数少ない友人たちのおかげ。

 

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人間との関係について

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人間という言い方が、なかなかに興味深いなと思ったテーマ。

他人ではなく、人間。

人間よりは動物の方が好きな私にとっては、難しいテーマになりそうだと、つい筆を置きがちになり、放置してしまっていた。

 

人間の定義を考えたときに、私は理性の有無だと思っている。

本能のままに動き回る動物たちと違い、人間には感情や本能を滑らかに操縦するべく、理性が備わっている。そして、理性を保つために、日々、様々なことを思考している。

 

人間関係の難しさについて考えてみると、恐らく、理性的であるか否か、ということに行き着く。

 

感情的であったり、喜怒哀楽の激しい人は人間らしいという人もいるだろうが、先述した定義に則ると、真逆にいる気がしてしまう。

感情をコントロールできず、人に当たり散らしたり、人目も憚らず泣いてしまったり、静かな電車内で大口を開けて笑ってしまう。

そんな人は少し理性に欠けるのでは、とふと思った。

 

非感情的や理性的な人にとって、野原を駆け回る犬の如く、ころころと感情が変わる人は苦手意識を持つ気がする。(現に、私がそうであるように。)

理性的に、思考的に、物事を順序立てて捉え、感情論だけでない知見を持つ人は、きっと冷静で俯瞰的で、人間らしく見える。

 

結局のところ、相性、ということでもあるのだけれど、人間には理性という生物界では類い稀なる才能が備わっているのだから、それとなく、上手く使えたらいいのにな、と思う。

 

人間関係でうまく行かないと嘆く人も、俯瞰かつ理性的に関係性を眺めてみれば、きっとシンプルな事に気付く気がする。

何が言いたいかわからなくなってしまったのは、きっと疲労と満月のせい。

 

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春のこわいもの

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6月は自分の誕生月ということもあり、すっ飛ばしてしまいましたが、下半期に入ってきたので、気を取り直して、また散文を書き散らしていく所存。

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春のこわいもの。

春を怖いと思ったことがないので、不思議なテーマだなと、率直に思った。花粉症持ちの方は、それはそれは恐ろしい季節なのだろうなと思うのだけれど、私にもその感覚は有りつつ、それでも冬が苦手な私にとって、春の訪れは心躍る季節。暗く冷たく長いようで短い冬が終わり、ほんのりとした暖かさと、木々や花々の色味が街並みにほんのりと色をつけていく季節。

蟻がちらほらと歩き始め、野良猫が植木の合間から顔を覗かせ、重たい上着を脱ぎ捨てて、身軽になれる季節。

 

そんな中でも、こわいもの。

それはきっと環境の変化と、変わり者の目覚め。春は出会いの季節とは、よく言いすぎた言葉だなと。出会いを求めている人にとって、環境が変わり、人の入れ替えがあり、期待に胸が膨らむ。しかし、私にとって、環境が変わることは、多かれ少なかれ、ストレスに感じることが多い。これは恐らく、幼少期からの人見知りが原因なのだと思うけれど。

 

春一番が吹き、髪が乱れることでただでさえ、櫛を通すことに精一杯の私に、新しい人との出会いや慣れ親しんだ人との別れは、しんどさを与える。別れということに大きな感情の起伏は起きないけれど、何故か新しい人との出会いは、緊張で胃がキリキリと傷んでしまう。職業柄、春でなくとも、同僚の入れ替わりは起きるのだけれど、特に春は学生時代のそれを思い出してしまい、余計に心労として蓄積される気がする。何故だろう、長年の不思議な感覚。

 

そして、春は自然の目覚めと同時に、不思議な人たちも目覚める。週に一度だけ、バーテンダーもどきをしている身としては、有り難迷惑な話。一見すると、何も害のないような人がニコニコと愛想笑いをして、お店に入ってきたかと思えば、一度アルコールを口に含むと、手品でもしているのかというくらいに人が変わることがある。怒鳴り散らすこともあれば、女性軽視発言をして相手に不快感をもたらすこともあったり、お金を払わずに眠りにつこうとする輩もいる。

 

不思議なもので、何故か春になるとこういう人たちは浮き足を立たせて、街を歩き始める。

不快な気持ちも苛立つ感情も、一日と経てば、愉快な出来事として、人に話すことはできるのだけれど、新しい出会いが苦手な私にとって、疲労が溜まるだけの出来事。

 

寒い冬を乗り越えて、暖かな陽射しとほんのりと彩りのある自然の芽吹きを喜ぶのは、きっと生き物すべての業。

冬を愛せない人への戒めなのかもしれないと思いつつ、早く夏が来ないかと、私はソワソワし始める季節。


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覚えている夢はありますか

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眠っている間に、現実的な夢をよく見る。

仕事をしていたり、遅刻しそうに焦ったり。

日常の延長線のような生活感のある夢が多い。

 

幼い頃から、舞台は大抵、身の回りにある身近な街だった。

近所の公園や住んでいる家、毎日通っていた学校。

普遍的な日常に、怪物が訪れたり、見知らぬ人が現れたりして、現実と幻想が入り混じった不思議な世界が広がっている夢。

 

その中でも覚えているのが、母校の中学校にある体育館奥の話。

様々なミッションを命からがら抜け出すと、いつも母校の体育館奥にある暗がりに階段が現れる。

そこを誰にも見つからぬよう、こっそりと登ると、晴れた空が続く古びた屋上が現れる。

屋上へ辿り着くと、なぜか私はいつも多幸感に満ち溢れ、これほどの幸せは二度と味わえないだろうと思ってしまう。

宝物も財宝も何もない、ただ広く誰もいないだけの屋上。

母校にとりわけ思い入れなどなく、むしろ、苦く、つらい思い出が多い場所という認識なはずなのに。

そしてまた不思議なことに、実際に母校の屋上へ行ったことはない。

いつも校庭から眺めていたあの屋上に、人知れず、憧れの気持ちがあったのかもしれない。

 

その夢に出てくるミッションと、舞台は毎回変わるのに、なぜかゴールだけは同じ。

不思議で、開放感を味わう、夢。

数年に一度見ていたその夢も、いつからか見なくなってしまった。

夢占いというものがあると知りつつ、その夢の原因を探るのは、野暮な気がしてしまい、偶然の出会いがまた訪れるのを密かに待っている。

 

私が鮮明に覚えている夢のお話。

 

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